【酒谷 晃生 / 作業療法士】心や命を大切に、そしてなぜやるのかを大切にしてほしい!

【酒谷 晃生 / 作業療法士】心や命を大切に、そしてなぜやるのかを大切にしてほしい!

酒谷 晃生(さかや こうき)

資格取得後、整形外科病院に4年間、脳神経外科病院に5年半勤務。
その後、パーソナルトレーニングを中心にフリーランスとして活動を開始。現在は、『NPO法人ココロにハルを』と『株式会社ココロにハルを』を設立。訪問看護ステーションを運営する傍ら数々の医療サービスを提供。命は有限であることをある経験を機に痛感し、心や命を大切にしてほしいという想いを胸に日々活動中。

THERA-FIL

セラピスト取材メディア『THERA-FIL』は、平均寿命ではなく健康寿命を延ばすために、病院以外で本当の健康を届けるために活躍しているセラピスト(Therapist)を1つの記事(Film)として取り上げています。

THERA-FILって何のメディア?
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作業療法士からNPO法人と株式会社の設立に至るまでにどのようなストーリーがあったのでしょうか。

酒谷さんFilmを覗いてみましょう。

酒谷さんが作業療法士になろうと思ったきっかけを教えてください!

酒谷 晃生

小学生の時に膝を大けがをしたことと、ある知人に勧められたからです!

私は元々、子供の頃からサッカー選手になるのが夢でした。

そう思ったのは、私の父がJリーグの前身であるJFL(ジャパンフットボールリーグ)の富士通サッカーチーム(現:川崎フロンターレ)でサッカーをやっていたことがきっかけです。

父の影響で幼い頃からボール蹴っており、将来は父を超えるサッカー選手になりたいと思っていました。

ところが10歳のときに、体育の授業で右膝の前十時靱帯と内側半月板のけがをしたんです。

そのけがで、医者から「成長軟骨に傷がつくかもしれないからある程度成長が終わるまでは手術ができません」と言われたんですよ。

小学4年生でけがをして前十字靭帯の手術が可能になったのが中学3年生のときでした。

それまで靱帯が損傷したまま生活をしていたので、わずかな段差でも膝に負担がかかると膝が通常の2倍に腫れ上がっていました。そのたびに病院に行って注射を打ち、水を抜いていたんです。

何度も何度も水を抜いていたので、半月板もボロボロになり、その間に4回は手術をしましたね。

つまり、もう全力でスポーツができない身体になり、サッカー選手になるという夢もあきらめざるを得ませんでした

それが理由で長い期間自暴自棄になりましたね。やりたいことも楽しいこともない、将来の夢もないのに何のために生きないとダメなんだろうと思いつつ、学生生活を送っていました。

高校に入学したあとも、あまり素行が良いとは言えないタイプでしたね。全然勉強もせずにジャンプなどの漫画を読んで過ごしていました。

その当時、母が運営しているリサイクルショップのお客さまで来ていた知人から「これからの時代、介護の仕事もありだろうけど、リハビリの仕事もいいんじゃないか」と言われたんです。

その言葉をきっかけに、少しだけリハビリの仕事について調べて仕事内容を知り、自分が小学生のときに負ったけがを治すためにおこなっていたのがリハビリだったんだなと知りました。

ただ、身体よりも自分自身の揺れ動く陰と陽の心の葛藤などの心の動きに興味があったので、心の変化で苦しんでいる方にも寄り添うことができる作業療法士を目指しました。

酒谷さんの実習での思い出を教えてください!

酒谷 晃生

辛い経験をすることも多かったですが、自分が成長することにつながりました!

専門学校の3年生のときに評価実習があったんですよね。全く勉強せずに実習に臨んだので、バイザーの先生にたくさん指導を受けました。

実習先の病院ではバイザーの先生方も大変忙しく、20時〜21時まで業務をおこなっているような施設だったんです。

業務終了まで私も待機しており、一日の終わりにバイザーの先生から「最後なにか質問ある?」と言われてフィードバックがわずか5分ほどで終わる。そんな実習先でした(笑)

現在は実習のやり方も変わっていますが、私たちが学生の頃は徹夜で課題に取り組むのが当たり前という風潮があり、ほとんど睡眠をとらずに実習に行くほど頑張っていたんです。

ただ、実習終了後私につけられた評価は最低ランク。

バイザーの先生からのコメントでは、「今回の実習生は頑張ってる様子もみられず、またそれを改善しようとする努力も全く感じ取れませんでした」というコメントでした。

それを見て作業療法士は自分のなりたいものとは違う、社会人になるとみんな冷たいんだなと悲観的になり、自分が歩もうとしている将来に失望しました。

実習の評価が影響し、進級ができるか厳しい状況でした。

ただ、当時の専門学校の担任の先生が「あなたはやればできる人だから、条件付きで4年生に進級させてあげる」と言ってくださり、4年生に進級することができました。

悲観的になっていた私の気持ちを察してくださり、担任の先生から「あなたはここに行っておいで。ここにいる先生と関わったら今の気持ちが変わるから」と。

それから私は洞爺湖(とうやこ)のそばにある病院に2か月間の実習に行ったんです。

その実習先のスーパーバイザーの先生と出会ったことで、私が目指す理想的な人物像ができました。

その方は、リハビリ室に入ってくるだけでみんなが笑顔になり、ほっこりするような温かい雰囲気がある先生でした。

患者さまのお腹をぽんぽんと叩いて「最近腹出てきたんじゃないんですか?」と言っちゃうような一見すると楽しいおじさんなんですけど、リハビリのトップだったんです。

人柄だけでなく技術も卓越していた方だったので、セラピストとしても人としても素晴らしい方でした。私はこういう人間になりたかったんだというのが見えたんです。

この経験を通して、出会いは人生の灯だと気づきましたね。

臨床に出てみてどうでしたか?

酒谷 晃生

今の自分の活動に生かせる経験ができました!

資格取得後、整形外科専門病院に就職しました。その病院は患者さまへのリハビリに加えて症例報告や学会発表、論文作成にも積極的に取り組む病院だったんですよね。

とても忙しくて、当直室のシャワーを借りてリハビリ室のベットで寝るような形で、連日病院で寝泊まりするような生活を1年目から送っていました。

ただきつかったという気持ちより、今振り返れば楽しかったなと思います。

臨床現場に出てからも業務が多忙なことに加えて、人間関係でも苦労することが多々ありました。

実習でのスーパーバイザーの先生と出会って以来、私も変わろうと思っていたんです。

しかし、それまで自分の想いを優先して生きてきたので、すべてを変えることができずほかの方との信頼関係を上手く築けないことがありました。

患者さまから「担当を変えてほしい。あの先生とは合わない」と言われたことがありました。

一緒に勤務していた先輩から「技術に天と地ほどの差があるのに、給料同じなのが納得いかない」と言われたことも。

ただ、同期がやる気に満ち溢れていた方で、苦しいことも分かち合うことができる存在でした。その同期の存在は私にとってかなり大きかったですね。

大変でしたが整形外科病院での経験は、自分自身の成長に繋がっているという感覚があり、今でも活きているなと思いますね。

整形外科専門病院で4年間勤めた後、脳神経外科病院に就職しました。

脳神経=苦手意識があったんですが、苦手分野から逃げたくなかったので、脳神経外科病院では姿勢制御の勉強と大脳皮質などの脳科学の勉強、それに波及した生活期の作業療法を勉強しました。

自分のなかで、身体と脳と生活が関連性を見出すことができてきた頃から独立も考え始めたんです。

酒谷さんが独立するまでの経緯を教えてください

酒谷 晃生

独立した友人の成長に感化されたからです!

脳神経外科病院に勤務して3年目の頃、専門学校の同級生が独立したんです。

彼が個人事業主として独立してだんだん会う頻度も減っていたんですが、1年ぶりに会って彼と私の人生の経験値や濃度が全く違うことに驚かされました。

独立する前と比べて話す内容と言葉の質と重みが別人のようでした。彼の変化があまりにも格好良くて、私も独立したら人間的に成長できるんじゃないかと思ったんですよね。

友人から刺激を受け、心と身体の両面にアプローチすることを目的に、西洋と東洋の技術を融合したオリジナルの施術スタイルを武器に、2016年からフリーランスで活動を始めたんです。

現在までで20,000時間以上、3,000人を超える方を担当させていただきました。同時に訪問看護ステーションと業務提携して作業療法士としての仕事もおこなっていました。

その後2019年に、『特定非営利活動法人ココロにハルを(NPOココハル)』を設立し、私たちも含め、関わる方々やそこからつながる方々すべての心の健康、メンタルヘルスの充足を目指しています。

また、2022年の12月に『株式会社ココロにハルを』を設立しました。

酒谷さんの現在の活動について教えてください

酒谷 晃生

NPO法人や訪問看護ステーションの運営に取り組んでいます!

NPO法人の運営は、プラットフォーム型のNPOとして”すべての生命に優しい社会創り”をテーマにしているんです。

月に2回のこども食堂の運営と医療従事者がおこなう成年後見事業という子ども/障害福祉の事業を展開しています。

酒谷 晃生 子ども食堂

具体的には、成年後見事業の一環として家庭裁判所の方から任命を受け、認知症などで自己判断能力が乏しく、銀行取引など契約書のサインの財産管理が難しい方々のサポートをしているんです。

非営利団体の名前は、亡くなった子どものことを忘れないように、そしてみんなの心が冬の冷たい・寒い状態から春の温かい状態に変えられるような団体を創りたいという想いが込められています。

子どもにつけた『はるき』という名前からとって、特定非営利活動法人ココロにハルを(NPOココハル)と名付けました。

また、その3年後にはNPOココハルの資金源として株式会社ココロにハルを(株式会社ココハル)を立ち上げました。

NPO法人に寄付する形で運営に回すことで子どもたちを守るためのフィールドを自分たちで創っています。

株式会社ココハルでは、訪問看護ステーションと自費での医療サービスを提供し、NPOココハルと共創して医療と福祉の連動連携を図り、地域社会とのつながりを拡げています。

酒谷 晃生 子ども

札幌市から訪問看護ステーションとして指定をいただいているので、介護保険と医療保険に適応した形で、看護師さんとリハビリスタッフを中心に保険内でのサービスを提供しているといった形です。

自費の医療サービスは、独居の方などのご自宅での見守りや家事の代行サービスを提供しています。

知的障害や身体障害の方がイベントに出かけるためのサポートをおこなう人的資源が不足している場合に、それに同席しサポートをおこなったり。

そのほか「明日急遽、末期がんの方が退院するんだけど、病院の付き添いをおこなってもらえませんか?」などの依頼があった場合の付き添いなどもおこなっています。

誰かに頼りたいけど今まで頼ることができなかった方に届くようなサービスを提供しているんです。

酒谷さんが活動に込めている想いを教えてください!

酒谷 晃生

一人ひとりの命を大切にしてほしいです!

まず法人理念として、優しさ・恩送り・ただ自分らしくという3つを掲げています。

また、先ほどもお話ししましたが、4年前に長男が先天性疾患の病気で亡くなっているんです。それも100万分の1の確率の病気にかかり、15分ほどのわずかな命でした。

酒谷 晃生 独立

私は10歳のときに大けがでサッカーができなくなって、やりたいこともできないのに何のために生まれてきたんだろうという葛藤があったんです。

しかし、時の流れとともにそのようなことは考えなくなっていたんです。

改めて私の長男の死をきっかけに何のために人は生まれてくるんだろうと真剣に考えました。

世の中を見渡すといじめを理由に子どもたちや芸能人が自ら命を断つというニュースをよく目にします。

改めて「命」というものを考えたときに一人ひとりの命を大切にして欲しいなという考えが強くなったんですよね。

それが理由で、心や命を大切に出来るような組織・団体を創り、手の届く範囲の方々の心のケアをおこないたいという想いを込めて活動しています。

THERA-FILを通して伝えたいことはありますか?

酒谷 晃生

目的を持って本当にやりたいことに取り組んでほしいです!

何をやるかよりもなぜやるのかという目的を持つことが大事だと日頃から感じています。

セラピストのなかにも、なぜ理学療法士や作業療法士になりたいと思ったのかという根幹となる理由があるはずです。

資格があるから何ができるかを考えるのではなく、一人の人間として自分に何ができるのかを考えたときに世界が一気に広がり、見える世界が変わると思います。

だからこそ、さまざまなことに取り組まれている方と話したり接点をつくることによって自分自身の固定概念を壊し、コンフォートゾーンを広げていく必要があります。

本当に自分がやりたいことが明確になったうえで、独立もしくは病院勤務などの自分の生き方を決めるべきだと思うんです。

いつか死ぬわけで、もしかしたら明日死ぬかもしれない。100歳まで生きれる保証はないので、自分の夢を叶えるための行動をとっていくべきだと思います。

また、自分を大切にすることがいかに大切なことか、どんな自分も受け入れられる優しさ、そこから広がる社会への優しさがすべてつながっていることを伝えたいです。

特定非営利活動法人ココロにハルを

 

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